はじめまして。
未来志向カウンセラーの秋月みなみです。
突然ですが
あなたは今を生きていますか?
もし、NO…という、あなた。
なぜ、そう思われるのでしょうか?
●周りの環境のせい?
●年齢のせい?
●性格や容姿のコンプレックスのせい?
●あるいは…障がい、病気のせい?
実は私19歳の時にメンタル疾患になりまして、今でも通院を続けております。
病歴は20年以上経ちました。
メンタル疾患を持ちながらも
カウンセラーになろうと思ったのは、
理由がありまして
ここへ来てくださったあなたにお話ししようと思います。
あなたと繋がるきっかけになれたら
うれしいです!
秋月みなみってどんな人?
1982年生まれ 熊本県出身
父、母、兄の4人家族
父は当時小学校の先生。
父は後にキャリアアップし校長先生になる。
これが、
私の小学校~高校までの学生時代
プレッシャーを感じながら
窮屈な学校生活をおくる。
勉強は苦手で、要領も悪くて苦労した。
特に高校時代の理数系は散々でした。
「…こんなのも分からんのか」
「この間も同じこと教えたぞ」と
学校の先生から言われ
それから先生に聞くことを避けるようになる。
父に教えてもらうが、
学校の先生と父の教え方が違って聞こえて
余計こんがらがってしまってた…(笑)
でも友達に聞くと、
案外スッと入ってくるという
不思議な脳の仕組み。
私の場合は友達から色んな
話題や情報を受け取っていた。
それは社会人になってからも。
ありがたいことに
勉強面以外でも、
どうしたらいいのか分からなくて
つまずいている時や困っている時でも
誰かがいつもそばにいてくれて
寄り添って助けてくれた。
ぶつかることもあったけど、
言いたいことをお互い言い合って
怒って、泣いて、謝って、仲直り。
学生時代はそんな感じで
学校という守られていた空間で
窮屈さを感じながらも
楽しんでいる学生時代だった。
でも社会人になるとね
思うようにならなくて、理不尽なことが続いてね
将来の夢も諦めてね
本当に
「この先どう生きていったらいいんだろうか…」って
悩んだし、本当に苦しかった。
でも、「このまま諦めたくない…。」
その諦めの悪さが
私をここまで強くさせてくれました。
物怖じしないマイペースな性格の幼稚園時代
身長が幼稚園の中で一番高く、
男の子みたいな見かけで、
思ったこと素直に言う女の子。
「じいちゃん!アイスクリーム食べたいから100円ちょうだい!」
父方の祖父の家に遊びに行くと、
祖父に言っていたそうです。
祖父が怖くて言えない兄は、
それをつまらないと感じていたとか。
「何であいつは言えるんだ。」と。
その頃は周りを気にしないで
マイペースに行動し
思ったことは、
ストレートに発言していたそうです。
しかし
年長さんの時に問題が発生しました。
「みなみちゃんから蹴られた…」
同じクラスだったお友達がお母さんにそう言ったそうで
先生から母に伝えられ
家で事実確認をされますが
何のことを言っているのか
いつの話を言っているのか全く分からず
「やってない!」と訴えます。
しかし、
「蹴られた」とお友達はお母さんに言ったそうなので
父とお友達の家に謝りにいき
お友達のお母さんに泣きながら
「…ごめんなさい…」と謝っていた私。
心の中は
「やっていないのに、何でごめんなさい、しないといけないの?」
悔しくて、悲しくて、歯を食いしばっていたのを覚えています。
お友達のお母さんは許してくれまして
抱きしめてくれました。
夕飯の支度をしていたのかなぁ。
エプロンから
玉ねぎの匂いがしていたのを思い出します。
しかし、しばらくして
母から聞かされたのは…
「○○ちゃんを蹴ったところは、誰も見ていなかったって。
もしかしたら、○○ちゃんの嘘だったかもしれないって先生が言ってたよ。」
それを聞いてホッとしたのと
「何で嘘ついたの?」と疑問でいっぱいでした。
「許してあげなさい」
母がそう言ったので
お友達に問い詰めることはせず
私から話しかけることを
あまりしなくなりました。
この経験を思い出すと
受け入れて許すというのは
幼かった私には
とてもエネルギーがいることだったと感じています。
そのエネルギーで変に疲れたり
近くにそのお友達がいると
イライラすることが多くなっていて
「あっち行ってよ!」と
言いたいのを我慢していました。
だから、
私からはあまり話しかけなかったり
お友達の近くにいることを
無意識に避けていたんだと思いますね。
幼い私が
受け入れて許すという考えは
とても苦しかったのですが
後に
大きな転換期で大事な役割を果たし
自分自身を救うこととなります。
プレッシャーの連続の学生時代
受験失敗⇒1年遅れて看護学校へ入学
小学校、中学校、高校、になるにつれて、
父の存在が大きくなっていました。
父もキャリアアップするために
仕事と昇格試験の両立を
目の当たりにしていたし
あっという間に
小学校の校長先生になっていたので
そのプレッシャーは大きかったです。
ありがたいことに私は友達に恵まれて
学校生活は楽しかったのですが
「先生の娘だから(できるはず)」
という期待や偏見の視線でいた学生時代の先生方。
私を見てニヤニヤして
こそこそと耳打ちしながら話されているのを
実際に見たりしていたので
私が話題になっているのは感じていました。
また、兄と同じ高校に進学したのですが
兄の部活顧問だった先生がまさかの在任中。。
兄とは少し年が離れていましたので
まさか、かぶるなんて思いませんでした。
そして、こともあろうに学年主任になられて
「はぁ…マジか…。」
愕然としました。
「兄の妹だから」と
期待の目で見られているのは
先生の日々の声かけでわかりました。
あいさつ代わりで「兄ちゃん元気か?」
「おい秋月!
この間の試験はもう少し頑張れたんじゃないか?」
など、声をかけられる。
まぁ学年主任の先生でしたから
全体を把握するのは学年主任の役割ですし
私以外にも当然、声かけをされていたと思います。
しかし、高校生の私は
父や兄と関連付けて関心を持たれたり
注目されることが苦痛で仕方ありませんでした。
何故なら注目されることで
「期待に応えなければならない」と思い込んだり
「なんだ全然、大したことないな」と
思われるのを恥じていたからです。
その恥は私のためでもあり
兄や父のためでもありました。
特に
私が劣等生のせいで父が笑われるかも。
教師の娘なのにあいつは出来が悪い。って思われるかも。
だから私は「できない、分からない」って言えない。
「できません、分かりません」って言うことは
恥ずかしいことなんだ。
だから私は
何でも頑張らなければいけないんだ。
そういう使命感を抱えていました。
でも父は
そんなことを背負わせることはしませんでした。
中学3年の時でした。
喧嘩でそのことを口走ってしまったことがあったのですが
「それはお前の思い込みだろがー!」
「いつ俺がそんなことを言ったか!」
とめっちゃ怒られました。
私がそう思っていただけでした。
でもフツーそうでしょ?って思って
兄に聞いてみたら「俺は気にしてなかった」と(笑)
父が一喝してくれたおかげで
少しだけ肩の荷が軽くなったのを覚えています。
私は 体育や音楽(歌)が得意でした。
調理実習とかも好きでしたね。
ミシンは出来ないけれど
ボタン付けや、まつり縫いはできる程度。
また、書道も好きで得意でした。
書道は「やっていてよかったな」と思う習い事です。
ワイワイ言いながら身体を動かすことや、
正解がなくて
自由に表現できるものを得意としていましたし
好きでした。
今でもそれは変わっていません。
素晴らしいと思う作品や
個性的な作品を見ると
見入ってしまい、感動してしまいます。
音楽や映画、写真や絵画、空とか植物とか
「わー!すごい!これいいなぁ!」って(笑)
繰り返しになりますが
勉強があまり得意ではなかったため
自信が持てず劣等感を感じていました。
心のどこかで「教師の子どもなのに…」って
自分でもそう思っていたんですね。
高校時代は理数系が分からな過ぎて
分からないところが分からない状態でした。
高1の時でした。
数学の先生に思い切って聞いたらば
「この前も同じことを教えたぞ」
「やっぱりわかっとらんかったかぁ(笑)」と言われる始末。
「…分からないから聞いたのに。
やっぱり理解力のない私が悪いんだ。
もういい。数学は捨てる!
数学でいい点は取れなくていい!」
もう意地のような気持ちでいましたね。
それは学年が上がっても変わらずでした。
どんだけ嫌だったのか(苦笑)
でも、さすがに他教科では
そんな強気なことは言ってられるはずもなく
「ちゃんとやらなきゃ!いい点取らなきゃ!」と
自分でプレッシャーを与えて
自分なりに頑張っているつもりでした。
でも、
結果は点数にあまり反映されませんでした。
高校時代は3年間担任の先生が同じでした。
先生の担当教科は英語でした。
英語は得意ではなかったですが、好きでした。
中学校時代の英語の先生方の教え方が
私は楽しかったし、分かりやすかったんですね。
それで好きになりました。
しかしながら、
高校になるとレベルが上がりすぎて
文法は増えるし長文問題も多いし…。
単語も増えて長くなってね…。
覚えることが多くて必死でした。
覚えるっていうかもう、暗記レベル。
担任の先生が
「単語は貪欲に覚えろ」って言ってたし。
私は書かないと覚えないタイプだったので
大変でした…。
授業前に単語の小テストが毎回あったんですが
チラッと隣の机見たら単語がズラリ書いてあって
「うわー!ずるー!」って思ったり(笑)
真面目にやってる自分が
バカバカしく感じることもありました(苦笑)
高校3年の時、答案を返される度に
「秋月お前はできないんじゃないやらないだけだ~」
と、さり気なく言われることにイラっときてました。
「決めつけないでよ先生!私ちゃんとやってるし!」と
心の声はあらぶっていました。
でもね、思い返してみると担任の先生は
ちゃんと私を見てくれていました。
卒業アルバムには
「夢があるっていいよね!素直さって忘れちゃいけないよね!
でも、それをあなたはみんな持ってる!そんなあなたに乾杯!」
そう書かれていました。
当時これを読んだときは正直言って
何を言ってるのかよく分かりませんでしたが(笑)
先生なりの愛情表現だったんだと思っています。
私は看護師になりたかったので
県外の看護大学、県内外の看護専門学校の受験をしました。
(浪人時代も含めてです)
高2の時でした。
担任の先生に
「大学と専門学校どちらがいいんですか?」と
進路相談をしましたら
「できるなら大学に行ったほうがいい」と。
私の心の声は
「大学かぁ…。無理だろうなぁ…。」
「でもまだあと1年もあるしなぁ…。」
悲観的な考えと楽観的な考えが
交互にありました。
1日看護体験という職場体験のイベントが
高3の夏休みにありまして、
友達と電車に乗って市外の病院へ行き、
実際にナース服とナースキャップを着させてもらい
看護師さんの仕事を見学しました。
訪問看護の見学と病棟看護の見学でした。
実際に見学してみてやっぱり
看護師になりたい!って強く思ったんですよね。
父方の祖父も入院中でしたし
看護師さんの声掛けに対する患者さんの笑顔が
柔らかくて優しくて(おばあちゃんだったかな)
看護師の仕事をもっと知りたい!
そう感じる体験でした。
高3の2学期。
どこの看護学校へ行こうか?
行くなら県外がいい。
地元ではなく県外の学校がいい。
それだけは決めていました。
ある日の放課後でした。
県外の某看護大学の情報が
目に飛び込んできました。
「え?新設されたばっかりの大学?
へーそうなんだ!
あら…推薦でも行けるんだねー」
「待って…。
二学期までの内申点で
推薦の条件が決まるんだよね?
まだ時間あるじゃん。
大学に行けるかもしれないじゃん!」
当時、医療系の分野はハイレベルで倍率も半端なく
可能な限り
複数の学校を受験したほうが良い時代でした。
(今はどうなんでしょうか?)
今思うとね
私の脳内では
勝負師のような会議があっていました。
「大学受験は高校受験とは違って
全国各地方から集まる。
出来れば浪人は避けたい…。
というか
浪人は嫌だよ!また1からやり直し?
そんなの嫌!現役合格がいい!
よし!まだ時間はある!
やれるだけのことはやってみよう!
一発逆転ができるかもしれない!」
「先生(担任)
私この看護大に行きたいです。
今からでも内申点上げたら
推薦までは間に合いますよね?」
志望動機を書いて先生に提出すると
「たったこれだけ⁉もっと書くことがあるだろ!」
とびっくりされました。
「え?ダメなんですか?」
志望動機の用紙は
原稿用紙半分ぐらいの大きさでした。
私は簡潔にかつ正直に書いたつもりでしたが
「ちょっと書き足してみるから」と手を加えた先生。
私が書いたものより
印象よく聞こえるようにはなりました。
でもね、なんかピンって来なくて
しっくりきませんでした。
「でも推薦で行けるならこれでもいい」
内申点を上げるための材料になればと
漢検3級と英検準2級に挑戦しました。
漢検は友達はみんな合格してたのに
私は不合格…(笑)
しかし、英検準二級は合格!
筆記試験の一次試験を通過して
二次試験は面接試験でした。
英検の面接試験は他の高校であったのですが
自分の番がきてドアを開けると
担任の先生が偶然にも
面接官だったので思わず日本語で
「えー!何で先生がいるんですか⁉」
と言ったら
「English only please Miss 秋月」と(笑)
面接試験は絵を見ながら質問されました。
質問の内容は全然覚えていません。
でもね
つたない英語力でしたが
伝える努力はしました。
聞き返しながらも
精一杯の表現力で伝えました。
結果はギリギリの合格でした。
あの時は嬉しかった!
なんだかんだで
高3の二学期までに内申点を上げることに成功しました。
「やれることはやった。」
あとは担任の先生が私を推してくれたらば
看護大学に行けるかも‼
しかし現実は甘くはなかった…。
担任の先生は推してくれませんでした。
「はぁ~。駄目だったかぁ。。」
「仕方ない、一般試験でいくしかないんだね。」
ちょっとした燃えつき状態で二学期を終えました。
一般試験は
1月から2月がほとんどだったと思います。
急いで一般試験に切り替えて準備。
このまま大学だけに絞ることも考えました。
しかし、受験失敗は避けたい。浪人は嫌。
この意地とプライドが勝ってしまい
「受かればどこでもいい」という
不純な動機で進学先を探しました。
もう、ホントお恥ずかしい話です…。
結果は…全滅でした。
どこかほっとしたような気分でした。
でもやっぱり悔しかったです。
卒業式後クラスに戻って
最後に一人一言挨拶みたいなのがありまして
私は涙を流しながら
「またゼロから頑張ります」的なことを言いました。
するとねクラス全員からの拍手…!
とても力強く、でも優しくて温かいものでした。
今でも思い出すとウルってきちゃいます。
母が卒業式に来てくれたんですが
母も拍手を聞いて涙が出たそうです。
口下手だった父は、
手紙で応援してくれました。
卒業式後の謝恩会で、保護者として父が出席した時
進路指導部の先生が父に打ち明けてくれたそうです。
「一か八かで秋月を推薦で受けさせてみてはと
担任にだいぶ言ったんですが、
担任は推しませんでした。申し訳ありませんでした。」と
頭を下げられたそうです。
「…そうだったの?あの先生は推してくれていたんだ。
先生とはあんまり接点なかったけどな。
そっか。そうだったんだ。」
「…で?3年間私を担任してくれた先生は
最後の最後で私を推さなかったのね。」
その時は、裏切られたような気持ちでした。
先生、高2の時 言ったよね?
「自分はここで13年間勤務しているけど、
つづけて同じ学年を担当したことは一度もない。」って。
「私は嬉しかったんだよ。
先生は選んでくれたんだって。
なのに、なーんで推してくれなかったのよ!」
そんなことを思っていました。
そして
衝撃的なことを卒業後に耳にしました。
担任の先生は
同じクラスの男子の推薦枠が取れなかったことを
自宅までに謝りに行った。と。
「そうだったのか…。
私の知らないところで
そんなことが起こっていたなんて。
そっかぁ…自宅まで行ってたんだ」
「やっぱり基準は点数だったんですか?」
「課外授業の出席率は96%以上で
創立以来、最も高い出席率だった」って
学年主任の先生はそうおっしゃっていたよ。
私も皆も真面目にやることをやってきたのに。
最終的には点数で評価されて
えこひいき、とも捉えかねない
思わせぶりだった先生の発言に
嫌悪感を感じてしまいました。
でもね、この先生のおかげで
私のチャレンジ精神は発掘されたといっても
過言ではありません。
「お前は出来ないんじゃない。やらないだけだ。」
ポジティブに言い換えれば
「お前はやればできるんだ!」って。
考え方も体質も体育会系だった私は、
浪人時代はストイックでした。
そこからは今でも思い出しますが
めちゃくちゃ頑張りました。
苦手だった数学を徹底してやりました。
するとね、
本番では嘘みたいに解けちゃったんです。
(今はもう解けないです(笑))
結果は、4校受けて2校合格しました。
憧れだった大学は落ちました。
卒業証明書を取りに行く必要があったので、
友達に付き添ってもらい、母校に行きました。
事務室で手続きしてるとき
担任だった先生を呼んでもらいました。
先生は目を丸くして驚いたような表情で
「みなみちゃんね⁉」って。(笑)
「はい みなみです(笑)」
「先生、私合格しましたよ~!
今日は卒業証明書を取りに来ました。」
私の中で達成感が広がりました。
後付けに聞こえるかもしれませんが
学年主任の先生が書いてくださったメッセージは
「必ず目標を達成してください!」でした。
表現はあまり適切ではないですが
当時の私の場合は
「怒りと悔しさ」をバネに頑張ることができました。
しかし「怒りと悔しさ」が
思いもよらない方向へ進んでいってしまうのです。
プレッシャーからの解放で
ルンルン生活♪しかし…
一年遅れの春♪
県外の看護専門学校に入学♪
同じ志を持つ仲間の囲まれて、
とても嬉しくて、楽しい毎日!
念願の一人暮らし!
苦しかったプレッシャーからの解放!
「やっと自分らしく過ごせる!」
そんな期待感を持ちながら、
看護学校の生活が始まります。
学校にも慣れてきた頃、
学年も地元も同じだった人が
2年生として在学していることを知りました。
何の巡り合わせか分かりませんが
その人は偶然にも
予備校仲間の知り合いでした。
その人には既に彼女さんがいて
その彼女さんと私は同じアパートでした。
私と同じ階には別の2年生が住んでいました。
私は彼女さんがいると知って
「こればっかりは諦めんといかん…」
何もしないまま終わることを決めていました。
しかし…ある日
思わせぶりにも受け取られる
変な態度を友達と見たのをきっかけに
再び気になりだしました。
それがきっかけで
眠れない日々が続き、
少しハイテンションになり始めました。
その様子に気づいた担任の先生が
心配してくださり、早退して休むように言われて
アパートに帰るのですが
夜になっても頭の興奮状態は取れませんでした。
友達も心配してアパートに来てくれました。
その日の夜中でした。
誰かの笑い声がしたような気がして
玄関から外に出てみましたが、
誰もいませんでした。
「何だ気のせいか。ちょっと頭を冷やそう。」
私は当時5階に住んでいました。
エレベータもありましたが
階段で上の階に行って、
暗い踊り場でしばらく座っていました。
「やっぱり考えすぎだよ。
私の勘違いかもしれないよね。
はーもう眠い!寝なきゃ!」
そう言い聞かせて
部屋に戻ろうと階段を下りました。
私の部屋に戻ろうとしたら
私は5階だったのに
6階の方の玄関を開けようとしてしまったのです。
これが悲劇的な展開になってしまいました。
「あれ?鍵がかかってる…。何で?
え?ここ私の部屋だけど?」
ドアノブをガチャガチャして
インターホンも鳴らしてしまいました。
6階の方は男性でして
「こんな遅くに!
お宅は誰ですか!警察呼びますよ!」
そういってすぐに警察を呼ばれてね…。
私はどうしたらいいのかわからなくて
パニック状態でした。
私は
自分の部屋で間違いないって思い込んでるし
逆に
男性が私の部屋に勝手に入っているんだ!って
思っていました。
だから
男性の言ってることがどういうことなのか
分からなかったんです。
6階の方は
私よりも恐怖だったと思います…。
夜中にドアをガチャガチャされて
インターホンが鳴って
知らない人がここは私の部屋です。
なんて言われたら
怖いですよね…。
駆けつけた2人の警察官には
「薬をやったのか‼住所はどこだ‼名前は!」って。
大声で言われて…。
「薬なんて飲んでない!やってない!」
「住所はここです!」「実家は○○です!」
「○○の看護学生です!」「名前は(旧姓)です!」
そんなやり取りをして
抑えられながらパトカーに乗り
無事に保護されました。
実家にも連絡がいき
朝方、両親が警察署に迎えに来て
泣きながら実家に戻りました。
父が警察官に言われたそうです。
「娘さんはストレスが溜まりすぎてる」
「ずっと○○君が…と言ってましたよ」と。
そして地元の精神科で受診中に意識を失い
入院となりました。
薬の副作用に悩みながら、
復学→留年→退学
入院中、薬の副作用で字が書けなくなり、焦る毎日。
とにかく文字を毎日書いていました。
担当看護師さんは
「徐々に書けるようになるから、焦らなくていいよ」と言ってくれましたが、
焦る私には何の気休めにもなりませんでした。
また薬の副作用で
体重が10キロ近くドーンと増えまして別人のようになり、
制服が入らなくなっていました。
「どうしよう…どうしよう…これじゃ学校いけない」
当時の女性主治医は薬を変えるつもりはなく、
「副作用とは、上手に付き合っていくしかない」の一点張りでした。
3か月後に無事退院し、
食事を節制したり、運動したり、
両親が気分転換にとドライブに連れていってくれたりして、
出来るだけゆっくり過ごしました。
しかし、お年頃だった私は体形が気になっていたり、
後れを取っている授業が気になったりで、
先のことばかり気にしていました。
制服は入らないままで、
制服に近い服装で行くことになりました。
復学したのは秋でした。
復学を果たすも
単位が足りず留年してやり直す選択をしますが
残念なことに実習直前に再発し
退学することになりました。
ありがたいことに
友人に助けられながら
授業や実技演習に頑張ってついていきましたが
服薬をしながらの学校生活はつらいものでした。
薬の副作用が強く、頭がぼーっとして、
授業に集中できなくて、
目を開けてるだけで精いっぱいでした。
実習前には実技試験があり
それをパスしないと実習には行けないルールでした。
手順がなかなか頭に入らず、
再試験を繰り返しやっと合格。。
「こんな状態で実習できるのかな…。」
「実習行きたくないな…」
「私は看護師に向いていない…」
「もう嫌だ…」
自信喪失で、逃げたい気持ちでいっぱいでした。
友達は
「実習楽しみだね!どんな患者さんかなぁ?」と
前向きな会話をしてくれていましたが
「そうだねー」と返すだけでした。
「学校辞めたいな…」という
後ろ向きな気持ちも出てきていて
再発をきっかけに退学することに決めました。
実習で担当する患者さんも決まっていたのに。
「これで楽になる…
だけどこれからどう生きていけばいいのかな…?」
ホッとしたのと同時に
先の見えない不安感を抱えることにもなりました。
でもね、この時やっていたのは、
ノートに気持ちをひたすら書くことでした。
思うがままに書いていました。
「何でこうなっちゃったの?」
「先輩たちが悪いんだ。」
「心配してくれていた先生もグルだったんでしょ?」
「私知ってるんだからね。全部覚えているんだからね!」
「私の部屋に入ったでしょ?」
「鍵はどうやって手に入れたの?」
「私のタンスからタオル出してテーブルにポンって置いたでしょ」
「私はあのタオルは自分で出してない」
「私はあのタオルは自分で出してない」
「何のために出してテーブルに置いたの?」
「再放送されていたストーカーのドラマ。
巻き戻しとかして、絶妙な場面で止めた?」
「犯人捜しはやめたら?って
何であの時、先生はそう言ったの?」
「やっぱり犯人いたんじゃん」
「犯人って誰だったの?」
「先輩たちは精神病の勉強してるもんね。」
「それを上手に悪用したんでしょう?」
「ドラマの内容と似せたの?」
「何がしたかったの?」
「私を追い出したかったの?」
「私が学校を辞めるとき両親に言ったんだってね。」
「秋月さんは絶対いい看護師になります!って。」
「責任取ってよね。私の人生終わったんだよ。」
「看護師になれない体になっちゃったんだよ」
「どーしてくれるの先輩たち、先生!」
「謝ってよ!逃げないでよ!」
思ったことを泣きながら書きました。
もうこれでもかってってぐらい、書きまくりました。
本当につらかったです。
でもね、だんだんとね、
諦めのような気持ちがでてきて、
「私の運命はこうだったんだろうな。
運命が決まっているのなら、悔しいけど
従うしかないんだろうな」
そう思い始めたのです。
まだまだ、不安定なメンタルでしたし
自分を恥じる気持ちもありました。
でもね、
「しょうがないじゃん。
もう看護師にはなれないんだから。
このままの私で生きていくしかないじゃん」
開き直りのような気持ちが出てきました。
もう現実を受け入れるしかない。
メンタル疾患になってしまった事実は変えられない。
何を言ったって「病気だ」と言われるんだから。
謝ってくれたら
私の気持ちを「ぅわーー‼」って言えるのに…。
でも、
私のメンタル疾患が治るわけじゃない…。
あームカつくなぁ。…悔しいなぁ…。
でも、しょうがないんだよね…。
病気を受け入れ上手に付き合っていく生活の始まり
「残念ながら、メンタル疾患は完治はしないのよ」と
当時の女性主治医に言われ、
「やっぱり上手に付き合っていくしかないんだね。」
「悔しいなぁ。見かけは病気になんて見えないのに。」
「普通に生活できてるのに」「眠れないだけなのに」
「でも先生がそう言うんだからそうなんでしょうね」
しかし、私の性格から
「病気でも人並みの生活はできるはず!」
「病気を理由にやりたい事を諦めたくない!」
そんな感情がふつふつと湧き上がってきて、
再びチャレンジ精神をむき出しにした20代が始まりました。
✓スポーツジムに通いダイエットを開始→減量成功!
ジム友達もでき、交友関係の幅が広がる
✓福祉系のアルバイトを始める→働ける喜びを感じ、6年間勤める。
しかし6年目に
「ヘルパーの資格しかないから」と言われて解雇になる。
✓ホテルの清掃業務やケーキ屋さんでアルバイト
✓医療事務の資格取得し就職する
✓学童保育、療育にも興味を持ち始め、転職をする。
転職を繰り返しながら、
「私は人と話すことや人の話を聞くのが好きである」ことに気づく。
「あなた話しやすいわね」と
お客様から言われるようになったり、
「みなみ先生あそぼー!」と駆け寄ってきてくれる
子どもたちと遊ぶことが好きだと気づきはじめる。
しかし、
職員たちと上手くいかないことが続き
3事業所目で一線から退くことを決める。
これは30代後半に入ってから決めました。
✓当時流行っていた「合コン」で夫と出会い、結婚する。
子どもは薬の影響を考えて、
つくらない選択をする。
正直、結婚できるとは思っていませんでした。
「病気の奥さんとか嫌だろうな…」と勝手に決めつけていたので、
なかなか、病気のことも言えずに
ズルズルお付き合いをしていました。
でもね、30歳を目前に
「一か八か、打ち明けてみよう!」と思い立ちました。
緊張しながら、病気のことを夫に話すと…
「俺もメンタルやられて、訳のわからん薬を飲んでたことがあったよ。
気持ちわかるよ。言いにくかったろうに。話してくれてありがとう。」と、
予想外の言葉が返ってくるではありませんか!
「こんなことってあるんだ…!
諦めなくてよかった…!
勇気出して正解だった…!」
大袈裟ですが、
奇跡を感じた瞬間でした。
嬉しくてたまらず、
涙をボロボロこぼしながら、
夫に「ありがとう。ホントにありがとう!」と伝えました。
夫と結婚できたのは、
「ありのままを受け入れて生きてきた事へのプレゼントだった!」と思っています。
私の日常生活を支えた
3つの心がけ
思い返してみると、特別なことはしていません。
3つの心がけは
✓継続すること
✓無理はしないこと
✓流れに身を任せること
【治療の面】
✓通院治療を続けたこと
✓服薬を欠かさなかったこと
※自己判断で断薬経験あり
✓主治医には、病状以外の些細な事で
も、話すようにコミュニケーションを、
自分から密なものにしていたこと
【日常生活面】
✓何事も無理をしない
✓頑張りすぎず、ボチボチを意識し、きつかったら休む
✓ゆとり持ちながら、毎日を過ごす
✓思い通りにいかなくても、不安なことが頭をよぎっても
「なるようになる!」と、流れに身を任せること
「出口のないトンネルはないよ」という
友達の言葉も支えになっていました。
私は言葉の力に癒されて、
勇気づけられていました。
二度の自然災害に遭い、
当たり前の有難さを知る
※私が撮ったものです
2016年4月
熊本地震を経験しましたが
大きな被害はありませんでした。
しかし、
令和2年の7月豪雨災害の被災者になり、家は浸水し
そして解体になりました。
「神様、何の試練なのですか…?」と
家の片付けをしながら
問いかけたりしていました。
住むところを失い、避難生活を経て、
仮住まいの生活を3年以上続けました。
大雨が降ると緊張が走ることもありました。
今でも、たまにあります。
それでも心掛けていた3つの心がけが支えになり、
再発することはありませんでした。
悲惨な状況でも、ただ毎日を生きることで、
当たり前の有難さを痛いほど感じました。
雨しのげる家があって、
温かいご飯やお風呂、布団がある。
家族、親戚一同、友達に支えられ
穏やかな日常を少しずつ
取り戻すことができました。
有難い限りです。
そして、一日の終わりには
「今日も一日生きることができました!」
「ありがとうございました!」と
感謝の気持ちで日記を締めくくる習慣がつきました。
休み休みでもいい
今を生きよう
月並みの言葉ですが、
今を生きることの積み重ねが未来に繋がる!
私はそう強く思いますし信じています。
私の場合は
メンタル疾患と付き合いながら
今を生きています。
予期せぬアクシデントが起きても、
過剰に反応しすぎず冷静さを身に着けました。
これは私の大きな強みになりました。
そして、
あまり人が経験しないことを
乗り越えてきたことで
物事を多角的に見たり楽観的に考えたり
決めつける癖、ジャッジする癖が
減っていることに気づき始めました。
例えば、誰かに嫌味なことを言われたりしても…
「そういう考え方もありますよね」とか
「○○さんはそう思われたんですね」とか
私も相手も尊重する言葉がけをするようになっていました。
「私に言いやすいから、言ってきたかもしれないな」とか
出来るだけ
楽観的に受け止め、受け流すことが増えていきました。
受け流せないこともありますが(笑)
また、周りにあまり集中し過ぎず
自分に集中することを
心がけていくようにもなりました。
すると、
類は友を呼ぶでしょうか。
某大手会社の
心理カウンセラー養成講座で出会った仲間たちは
似たような考えの集まりでした。
(人は人、自分は自分)
(冷静沈着で芯が強くブレない)
(でも愛がある集まり)
この養成講座で
最初に勉強したのがポジティブ心理学でした。
生きていれば経験する苦しみ。
その苦しみを拒絶することで強くなる苦しみ。
不幸せを抱きしめなければ
幸せで満たすことはできない。
タル・ベン・シャハー(YeeYInc.から引用)
これを講師から教わり講座が修了した時
私がやってきたことは間違っていなかった。
答え合わせができた瞬間でした。
そうなのです。
生きていれば
誰にだって悩みや苦しみはありますよね。
人知れず
悔しい思いをしたこともあるでしょう。
人知れず
我慢し続けたこともあるでしょう。
でも、その経験した
悩み、苦しみ、悔しさを
存分に受け入れ味わったら
段階的にだけど
悩みや苦しみ、悔しさを
手放していけるのです。
きっと
あなたの未来もあなたが照られるようになる
そう信じて
私はカウンセリング活動を行っていきます。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
未来志向カウンセラー 秋月みなみ
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